忘れられた日本の文化

映像民俗学への招待


 親から子、子から孫へ伝えられる生活術(庶民の生活と生活文化)、高度成長によって受け継いできた自然との深いつながりや対応といった「基層文化」をも捨てようとしている。1976年に姫田忠義氏を所長に「民族文化映像研究所」が設立され、それ以来日本列島の「基層文化」を記録するため自主記録映画を制作している。平成10年10月から12月にかけまして東北芸術工科大学(教授:赤坂憲雄他)が中心になりまして6回にわたり、これらの世界でも例にないドキュメンタリー映画が上映されました。以下はそのとき上映されました作品の概要(抜粋)です。

-----------------------山の暮らし------------------------ 

「越後奥三面 山に生かされた日々」

 新潟県の北部、山形県との県境にある朝日連邦の懐深くに位置する奥三面。平家の落人伝説を持ち、また縄文遺跡も残る歴史の古い山村である。人々は山にとりつき、山の恵みを受けて暮らし続けてきた。その奧三面がダム湖底に沈む。この映画は山の自然に見事に対応した奥三面の人々の生活を四季を通じて追い、ダム建設による閉村を前にした人々の想いをつづった長編記録。(145分)

-----------------------狩りの祭り------------------------ 

「イヨマンテ 熊おくり」

 イヨマンテとはイ(それを)・オマンテ(返す)という意味で、熊の魂を神の国へ送り返すまつりをいう。アイヌ民族にとって、熊は重要な狩猟対象であるとともに神であり、親しみと畏敬の対象であった。熊は神の国から、毛皮の着物を着、肉の食べ物を背負い、熊の胆という万病の薬を持ってアイヌ、つまり人間の世界へ着てくれる。そのお礼に人間界へお土産をもたせ、また来てくださいと送り返すのだとアイヌは言う。(103分)
 

 「山に生きるまつり」

 宮崎県の山村、銀鏡の銀鏡神社では、厳粛に霜月(旧暦11月)のまつりがおこなわれる。そこで行われる三十三番の神楽は古風な山の文化を伝えており、1977年には国の重要無形民族文化財に指定されている。銀鏡のある米良山地地帯は、焼畑・狩猟を生活の基本としてきた。近年は12月12日から16日にかけて行われているこの霜月のまつりにも、狩猟文化が色濃く反映している。まつりに先立って、狩ったイノシシの首を神楽の場に安置しその前で夜を徹して神楽を行うのである。(38分)

-----------------------家作りの民族------------------------ 

 「チセ・ア・カラ」

 アイヌの家作りは祈りに始まり祈りに終わる。はじめに敷地にポン(小さな)・ケテウンニを立て、火を炊き、イナウを立て祈る。そこにいた虫や獣達の霊を慰めると共に、この土地を一時かして下さいという意味を持つ火の神への祈りである。アイヌの家作りには、アイヌの知恵や自然観を伺うことができる。(57分)

「奥会津の木地師」

 日本列島には、近年まで移動性の生活をする人々が活躍していた。山から山へ移動して椀などの木地物を作る木地師も、その中にあった。これは、昭和初期まで福島県南部の山間地で盛んに移動性の活動をしていた木地師の家族、小椋籐八さん、星平四郎さん、星千代世さん、湯田文子さんによる当時の生活と技術の再現記録である。(55分)
 

「旧岩澤家住宅の復原」

 1990年、神奈川県愛甲郡清川村の岩澤家住宅が川崎市立日本民家園に移設された。この民家は江戸時代初期の物で、いえ本体の周りに下屋柱という柱をたてる、四方下屋づくりと呼ばれる特徴をもつ。復原には伝統的な民家つくりの工法が取られた。(30分)

-----------------------舟作りの民族------------------------ 

 「アイヌの丸木舟」

 アイヌの伝統的生活は、川を軸とした狩猟漁撈生活であった。そういう生活にとって舟は重要な生活用具であった。舟は、アイヌ語でチップ。チ(私たち)・オプ(乗る物)という意味で、丸木舟である。沙流川の川筋に住む萓野茂さんは、幾艘かの丸木舟作りの経験をもつ。その技術を次世代に伝えようとしてこのさぎょうは行われた。(47分)
 

「山人の丸木船」

 これも、奥三面の生活技術をまとめた短編集の一編である。奥三面は、広大な朝日連峰から流れ出る三面川の河岸段丘上にある。集落の足元を流れる三面川をわたって、人々は田畑を耕作し、山へ入って山のものをとって暮らしてきた。その川をめぐる生活に舟は不可欠であり、共同作業で丸木舟を作って共有物とした。第二次世界大戦後、橋がかけられ、舟はつくられなくなった。これは、舟作りの経験者、高橋利博さんと若い小池昭巳さんが作った舟作りの記録である。(32分)
 

「船大工の世界」

 海に囲まれ、川の交通網の発達した房総半島では、漁や交通手段に木造船が活躍した。このフィルムでは船大工の技術とその信仰習俗を記録した。きっぱ船とよぶ川船作り(佐原市の多田一二夫さん)と鯛釣り用伝馬船作り(和田町の樋口喜持さん)を映像におさめた。(42分)

-----------------------樹と暮らし------------------------ 

 「越前和紙」

 日本の紙を代表する越前和紙。その産地である今立町五箇は、越前平野の南部、古代の国府を眼前にした水の豊かな静かな山懐の里である。この記録は越前和紙の原点ともいうべき生漉奉書の漉き手、岩野市兵衛さん一家の営みを中心に、走査電子顕微鏡写真なども駆使しつつ、「紙を漉く」とはどういうことなのかを探る。紙漉きは種々の材料を必要とする。漉き桁、漉き簾を作る人々、材料の楮やネリの材料のトロロアオイを栽培する人など、わし作りを支える作業も追う。(57分)
 

「からむしと麻」

 「魏志倭人伝」に苧麻の名で記されている医療材料のカラムシ。同じように古くから利用されてきた麻。第二次大戦後、それからは急遠に日本中から消えていった。福島県西部の山間地に位置する昭和村は、沖縄県宮古島とともに日本でただ二ヶ所のカラムシの生産地である。そして数少ない麻の生産地もある。(55分)
 

「埼玉の箕づくり」

 箕のは「百姓の風呂敷」とも言われるほど、農作業のあらゆる場面に欠かせぬものであった。このフィルムでは、秩父山地と関東平野の接点にある埼玉県毛呂山町葛貫の桜箕作りの全工程と、箕をめぐる民俗を記録した。桜箕は桜の樹皮と篠竹とを綾模様に織り込んだ箕である。桜の樹皮の繊維は丈夫なので良質の箕の材料になる。全国的には藤蔓の皮で作った箕のほうが多く、藤箕は珍しい。葛貫では戦前は六十軒ほどが桜箕作りに携わっていたが昭和三十年代以降農業の機械化とともに衰退し、わずか数人が伝承するだけとなった。(40分)

-----------------------民族の変容------------------------ 

 「越後奥三面 ふるさとは消えたか」

 この作品は「越後三面 山に生かされた日々」の姉妹編である。「山に生かされた日々」は、1980年冬から84年春にいたる4年間の記録をまとめたもので、本編はそれに続き84年6月から1995年秋にいたる11年間の記録をまとめたものである。1984年6月29日、奥三面の住民代表は、新潟県知事とダムの補償基準協定書に調印した。1969年にこの地に県営ダム建設の話がもちあがって以来十五年、悩み苦しみ続けた全戸移住問題の賽が投げられたのである。そしてこの日から1年半後の1985年10月末、奥三面の家は完全になくなった。刻々に、無惨に、家々は消滅していった。本編は、その1年半の日々の様子を主軸にしながら85年10月末以降95年秋にいたる10年間の移住地での生活の様子と人々の思いを織り込み、さらに人々の移住後始まった三面一帯の考古発掘の結果を織り込んでまとめている。(154分)
 


                                    
更新日2000年4月30日