奥三面の基層文化

奥三面に学ぶ


 1967年(昭和四十二年)の羽越水害による大きい被害が、防災ダムとして奥三面ダムの建設を確かなものにした。奥三面川下流域平坦部に住む二十二万人の生命と財産を、三面川の氾濫から守るためである。建設計画発表後数年を経ずして、発電計画が加えられていることから、ほんとうのところ何を目的とした計画なのか、その真意が疑われるのだが、とにかくこの新しいダム建設のために奥三面の人びとが悩み、苦しみつづけて来たことだけは確かな事実である。

岩船郡朝日村奥三面

 新潟県と山形県との県境に連なる朝日連峰の懐深く位置する山峡の集落、新潟県北部にある岩船郡朝日村三面は、半年近くもの間は車による外界との交通が完全に不能となる。冬は二mから四mの雪におおわれる雪国の山村の典型といえるところである。三面は、平家の落人伝説をもつマタギ集落として、戦前から民俗学者などの間でその名を知られたところである。また、その生活領域内(元屋敷など)に縄文時代遺跡をもつきわめて歴史の古い地である。

 三面は、山猟、川漁、採草などの無栽培生活をはじめ、カノ(焼畑)、常畑、水田による農耕、塩木づくり、船木づくり、造材植林などの山林労働、そしてある時代は三面川上流での採金作業など、実に多彩な生産行為を行いながら生きてきたところである。マタギによってのみ生きてきたところではない。 この多彩さは、都市生活者はもちろん、平坦地農村の人びとの想像をはるかに超えたものといえる。この生産行為、生活行為の多彩さは、その背景にある山地自然の豊かさの反映である。しかしながら、ただ単に自動的に背景のなかから生まれ出たというようなものではない。三面の人の不断の努力ど工夫によってはじめて獲得し、継承しえてきたものである。

奥三面の基本的生活権

 三面の人がこう話してくれた。三面には三つの大事な権利があった。オソ場(山猟)、ドォ場(川漁)、スゲ場(採草)の権利だ。 つまり三面では、水田の権利などよりも、オソ場、ドォ場、スゲ場というような無栽培生活のための場(テリトリー)の権利が、最も基本的なものとして大切にされてきたというのである。

 第二次大戦後、この三つの基本的権利の実態は大きく変化してきているが、少なくともそれ以前は、この三つのものが三面という山村での生活を成り立たせる基本的な条件、基礎的成立条件をあらわしたものであり、お互いに侵すべからざるものとして守られていたのである。私たちの作業は、まずこの三つの基本的権利に凝結、表現されている三面での無栽培生活(山の自然の活用法)の実態を明らかにし、次いでそれを核にしながら、多彩に展開してきた三面の生活と生活文化の全容を明らかにする方向へと進めてきた。

三辻の話

  広大な山やまを活用しながら生きる三面の人びとの生活の足元をよく見ていると、しばしば思いがけない示唆を与えられる。たとえば、冬の間に人びとが毎日踏んでつくる集落内の雪道である。
 雪道は、ぶだん家いえを行き来するための生活路である。と同時に、急病人や火災など緊急事態が発生したとき、すぐに駆けつけられるために、家いえを互いに最短距離でつなぐ緊急路でもある。厳冬期の毎日の雪踏みの労力からいっても最短距離でなければならない。

 その結果でき上がる雪道をよく見ると、交差する点がおしなべて三つ辻になっている。寺の前の大門とよばれる四つ辻以外は、ほとんど三つ辻なのである。そして雪が消えるとこの雪道も消え、地図に記されている道路(いわば夏の道)があらわれ、そこには所々に四つ辻がある。
地図に記されている道路は、役場の予算などが投入されてつくられた新しい道路である。そして、そこには四つ辻があらわれる。一方三面の人自身が自分の足で踏みひらく生活路、雪道には四つ辻がない(大門は例外)。これば何を意味しているのだろうか。

 南島の辻々に立つ石敢当のことが想い出される。あれも確か三つ辻だが、考えてみれば石敢当は知っていても、なぜそれが三つ辻に立っているのか、そもそも三つ辻とはどんな性質のものなのか考えたことはなかった。
実はこれらのことにこだわり出したのは、毎年十二月八日と二月八日に三面の人びとが行う団子刺しの行からであった。十二月八日三面の人びとは、それぞれの家の最寄りの辻に、厄払いの串刺し団子(ニンニクを一串そえている)を立てる。その最寄りの辻はどこかとたずねているうちに、雪道のことが出てきて、団子刺しはその雪道のそれぞれの家の最寄の辻に立てるこどがわかったのである。雪が消えれば雪道は消え、雪道の辻は消え、つまり団子刺しの場所は消える。

 雪国には雪のある季節の生活と雪のない季節の生活とのニつの重層した文化があり、それが目に見えないかたちで雪国の人の生活行動や思考、さらには思想にまで深々と反映しているのではないだろうか。そして、そういう雪国の人の生活行動や思想は、今日までの日本人の生活史や文化史の上でほとんど無視されてきた傾向はないだろうかと思えるのである。

丸木舟作り

 豊かではあるが厳しい雪国の山地自然に対応して生きていくには、それ相応の生活技術がなければならない。三面には、実に多彩な生活技術がある。長い冬に耐えるための保存食の技術、こまごました日常生活用具づくりの技術、家を建て、岩(砂岩)をほって古風呂をつくり、大木を倒して丸木舟をつくるなどのダイナミックな生活技術にいたるまで実に多彩である。

 昭和五十七年西月、四m以上の雪におおわれた奥山の沢(コヨウサイ沢)の斜面で、トチの大木による丸木舟づくりが行われた。丸木舟は、かって吊橋のなかった三面の渓谷の生活になくてはならない必需品で、毎年のように村中の男が交代でつくったものだどいうが、昭和三十六年を最後にその製作が止んでいた。今回の調査を機に三面の人びとの好意と朝日村教育委員会のお力添えで行われたのである。
そして、そこに注目すべき技術がたった。伐り倒した材をオビラキ(舟の上面になる部分をけずり飛ばす)し、中ぐり(そこをえぐりこんで舟の内部をつくる)する。斧(ヨキ)で山型をつくっては、それを飛ばして面をつくりえぐりこんでいく。奥会津の木地師のオビラキと方法が全く同じなのである。凸型をつくって飛ばすこの方法であれば、鉄のヨキでなく石斧でも舟づくりがやれるであろう。縄文時代の丸木舟には中ぐりの部分に点々と火で焼いた痕跡があるが、三面では火は使わなかったということである。

三面での狩猟、採草、川漁

 寒があけて堅雪の季節になると、それまでの雪にとざされた室内での生活から一転し、山を縦横にかけめぐる山猟が始まる。かつて行われていたカモシカ狩りは、厳しい山の掟とともに長く三面の狩猟習俗の独自性を保っていたが、現在はカモシカ猟そのものが禁止され、行われていない。しかしながら、熊狩り、兎狩りは今も盛んに行われ、三面の人びとにとっての現金収入源、重要な動物性タンパク質の供給源である。熊狩りには、穴にいる熊を獲るタテシと穴から出た熊をとるデンジシとがある。一見すると厳しい山の掟、習俗は失われつつあると思いがちだが、狩猟、山に対する精神は、三面の狩猟習俗の独自性として保たれている。

 里雪の季節から雪どけの季節へ移ると、集落のまわりや山から、いっせいに山菜が萌え、ゼンマイ採りがはじまる。
この期間、人びとは集落を遠くはなれたゼンマイ小屋に家族ぐるみで泊りこみ朝早くから働く。小、中学校は十日(かつては二十日)ゼンマイ休校になり、子どもたちも親とともに働く。そして、田植えの季節がおとずれ、次いで夏となる。夏は、昭和三十年代初めごろまではスゲ刈りの季節であり、カノ(焼畑)の季節であった。スゲはスゲゴザに繊り(織るのは冬場の重要な仕事である)、岩船部落を経て海岸部の村上の町へ売りに行ったもので、かつては大事な現金収入の資であったが、昭和に入って次第になくなっていった。またカノも三面の人びとの食生活を支える上で重要な営みであったが昭和三十年代に入りなくなった。

 春から夏、秋にかけては、川漁の季節でもある。昭和二十八年に下の三面ダムができるまでは、マス、サケが遡上し、そのほかイワナ、ヤマメ、ウグイ、カジカ、アユなど魚は実に豊富であった。秋、田やカノの作物の収積に先立ち、キノコ類の採取がはじまり、熊やムジナなどの動物を獲るオソ(落とし)や熊狩りも並行する。山のものの萌え出る春と同じように、キノコや木の実の熟する秋は、人にとっても鳥獣一にとっても大事な食料採取のときであり、それを怠ると厳しい冬が越せないのである。

季節ごとの三面の人の主な行動領域

 この行動領域の変容に注目したとき、私たしたちにひとつの疑問が生まれた。夏は、気温が高く、生物の活動力が最も旺盛なときだから、人間の行動領域もそれと同じように大きいはずではないか。なのに、実際はその逆に行動領域がきわだって小さいとは・・・・。が、やがてこう気がついた。夏は万物の活動力が旺盛であり、山の草木の繁茂も最高になる。人を刺す虫も旺盛、蛇も出る。ということは、人は山へは容易に入れないどいうことだ。必然、人の行動領域は小さく、狭くならざるを得ない。また、夏は草木は繁茂するにもかかわらず、春や秋のように人が食料とする草は極端に少なくなり、木の実はない。そういう意味で夏は、無栽培生活に大きく依存する人にとって端境期になる。特に食用のアオモノ(山菜)はほとんどない。緑に包まれながら緑に飢える端境期。それをどうしのぎ生きのびられるか。ひょっとしたら、そういう飢えからの脱出のために、アオモノの確保、ひいては畑作鼻耕というものが生まれたのかもしれない。

 三面では雪とげを待ちかね、ゼンマイ採りに先立ち、畑にネギやミツバやホウレン草、大根、豆などを播く。会べきれないほどの緑の山のもの(山菜)に包まれている時期に、夏の緑の端境期に備える畑作農耕が行われる。今日の私たちは、そのことを別にとり立ててすばらしいこととも何とも思わないでいるが、よく考えてみるとこれはすばらしい着想であり、発明ではないか。そして、畑作農耕の登場によって、無栽培生活は格段に安定性を増しただろうことは想像にかたくない。
つまり畑作農耕は、無栽培生活の大いなる援軍であったことがわかる。


(昭和五十七年下記セミナー「羽越国境のマタギの村・三面に学ぶ−日本の山地自然と山村文化を見直そうー」資科より)


                             

更新日2000年5月3日